第1章第1節 韓・日国交正常化の背景と経緯

1976年に韓国・経済企画院から発刊された「請求権資金白書」3ページからの第1編第1章第1節を日本語訳したものです。

 

※参考サイト naver専門情報

 上記リンクからさらに韓国・国会図書館webサイトの原本ページに飛ぶことができます。

 

要旨
  • 日韓国交正常化は韓国現代外交史において最も重要かつ意義ある政策妥結であった。
  • 日韓国交正常化による国力培養が1960年代後半から70年代初頭の危機克服の糧となった。
  • サンフランシスコ平和条約および米軍政による日本財産の接収により韓国は日本に対して一方的に請求権を持つこととなった。 
  • 請求権交渉は難航を極めたが最終的に政治決断により交渉妥結、基本条約が1965年12月17日付で発効し対日請求権資金が導入されるに至った。

 

 

第1章 請求権資金の導入背景と使用基準

第1節 韓・日国交正常化の背景と経緯

 

1.国交正常化の必要性

 

1960年代の我が国の国内外情勢は非常に複雑だった半面で、今日の経済発展を成し遂げられるようにした転換点をもたらした時代だったと言うことができる。

すなわち、国内的には経済開発5カ年計画という重大課業を完遂するのにすべての国力が集中され、対外的には1945年韓国が日本の植民統治から独立した後14年間という長期間のあいだ妥協点を見出すことができず協商のみを重ねてきた韓日会談が妥結したことでもって新たな韓・日関係が樹立することとなった。

過去36年間にわたった日本の植民地統治に対する残滓意識を背景とする反日感情と、国交再開が別の次元で日本の対韓国支配の結果ももたらし得るという懐疑からくる排日思想が交錯する中、国政の賛反両論による政治的な混乱も惹起させたことがあったが、今日の結果を基礎とし回想したとき、韓・日国交の正常化は我が国の現代外交史において最も重要であり意義ある政策妥結だったと見ることができるであろう。

韓・日国交正常化が締結された当時の国内外状況、すなわち歴史的な背景を現時点からさらに整理してみれば次の通りである。

一つ目、歴史的な面から見たとき、我が国は1945年8月15日日本の無条件降伏により独立を取り戻すことができる権利は持つこととなったが、完全な主権国家としての体制を整えるにはいくつかの節次が残っており、日本との関係が完全に収束されたのではなかった。

すなわち、米軍政と過政を経て政府が樹立された年である1948年12月12日第3次国連総会で韓半島が唯一の合法政府であることを宣言し、国際的主権国家として認定を受けるなど、国際社会においては完全独立国家としての基盤が造成された。

しかし、占領当事国である日本が韓国の独立を認定したのは1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約でようやく成された。

このサンフランシスコ平和条約は連合国と日本の間に締結された条約であるため、当事者である日本と韓国との関係、すなわち日本が過去の対韓国植民地政策を謝罪し、かつて締結されたすべての条約、議定書、協定書なぢを向こうとする措置など根本的な生産措置はなされないでいたことから、こうした韓・日間の基本的な関係を樹立しなければならないということは歴史的な命題として残っていたのである。

二つ目、地理的な条件として韓半島は大陸の橋頭堡として世界列強の関心の焦点になっていたことはもちろん、新たに強大国として登場した中共と日本の隙間に入り込むがゆえに同じ自由陣営の日本と韓国の結束が要請されるようになった。

三つ目、政治的な面では自由陣営の中心役割を担当していた米国の外国および国防政策は地域集団防衛体制を中心として改編され、アジアにおいての日本の軍事上の位置を浮上させることはもちろん、北傀の戦争準備と南侵野浴が極に達するに伴い韓・日関係を鞏固にする必要性が漸増し、平和的祖国統一の基本政策を実現するために自由陣営の結束と国家経済発展に注力しなければならなくなった。

四つ目、経済的面において経済発展がすぐ祖国統一の近道だという政府の政治理念に伴い、すべての国力を経済発展に集中させることとなった

その上、第1次経済開発5カ年計画は経済成長基盤を造成構築し、第2次5カ年計画では高度成長を目標としたことで、莫大な国内外資本が必要となった。

しかし、米国の対外援助が1960年代中葉から減少することとなり新たな海外資本源が必要となったことはもちろん、輸出主導型産業体制へ背伸びする国内経済の活路を開拓するため米国依存的国際交易から米国、日本を包含する輸出多辺化が要求された。

その上、日本は高度の産業発展に後押しをうけ国際貿易の上位圏に入るようになり、世界経済秩序の再編成過程において日本との経済協力を通じて世界経済社会に跳躍する契機を用意する必要があった。

以上のような与件を勘案して政府では排日感情よりは冷酷な歴史的現実を直視したあまり、一部国民の反対世論にもかかわらず韓・日国交の正常化を妥結した。

振り返って考えるに、1960年代後半と1970年初半に起こった国際情勢の混乱、緊迫した安保危機、オイルショックによる世界経済秩序の混乱などを我々が克服できたのも経済協力の増進などを包含した韓・日間の国交正常化実現に伴う国力倍増が大きな力になったと言えよう。

 

2.国交正常化と請求権資金の導入背景

 

韓国と日本の関係において韓国の独立を最初に明文化した国際的協約は二次大戦が終結する二年前の1943年12月1日カイロ宣言があり、これはさらに1945年7月26日にあった連合国首脳による「ポツダム宣言」で再確認された。

すなわち同宣言によれば、「カイロ宣言の諸条項が移行されなくてはならず、日本の主権は本州、北海島(原文ママ)、九州、四国島と我々が定めるその他小島嶼に局限する」と明示したことにより、韓国は日本領土から分離し日本主権外にあることを明示した。

こうした宣言があってから約1ヶ月後の1945年8月15日、日本は2度の宣言を受け入れ無条件降伏し「ミズーリ」艦上で降伏調印をすることになり、ようやく我が国は独立を取り戻すことができる権利を持つこととなった。

その後、米軍政と過政を経て大韓民国政府が樹立され、これが1945年12月12日国連決議195(III)で韓半島の唯一の合法政府として宣言されたのち、米国を始めとした自由陣営の国家らが続けて大韓民国を合法政府と承認したことにより、完全独立国家としての地位が鞏固になったのである。

しかし、こうした一連の諸措置は主に連合国により成し遂げられたもので、占領当事国の日本により取られたものではない。

そして終戦後6年が過ぎた1951年9月8日サンフランシスコ平和条約により日本が独立国家として再出発し、同条約第2条a項で「日本は韓国の独立を承認し、済州島、巨文島および鬱陵島を包含する韓国に対するすべての権利、権限および諸請求権を放棄する」と明文化することにより、日本が韓国の独立を認定することになったのである。

こうしたサンフランシスコ平和条約も我々韓国と日本の間に成された条約ではないため、当事者間に過去の歴史を清算し、我々の権益を最大限に確保すると同時に正義衡平と互恵平等に立脚し新たな関係を結んだ韓・日間の国交正常化は必然的な課題として提起された。

こうした韓・日間の基本関係と関連して、去る36年間に我が民族が被った精神的苦痛や物質的損失の代価として、我々は当然に請求権を要求し補償を受けなければならないが、国際間の補償という国際協定のような法的根拠がなくては簡単に妥結されない特殊性を持っている。

韓国が日本に対し請求権を主張できる法的根拠は前記したサンフランシスコ平和条約に規定されている。

すなわち同条約第4条1項には「第2条に規定された地域(韓国など戦前に日本の植民地だった地域を指称するものである)にある日本および日本国民の財産および現在の該地域の施政当局および住民(法人包含)に対する諸請求権(債権包含)の処理と日本においての前記当局および住民の財産および日本と日本国民に対する請求権(債権包含)の処理は、日本と前記当局間の特別協定により決定される」と規定している。

これは韓国政府や韓国国民が日本政府や日本国民に対し、持っている債権関係を請求できるということを明らかにするものである。

こうした規定はその内容として見るに、韓国と日本相互間に請求権を主張できるようにする双務協定であって、我々が一方的に日本に請求権を主張できる根拠にはならなかった。

そして前記条約第4条2項に「日本は第2条に規定された地域(日本の植民地だった地域)の米合衆国軍政により行われた日本と日本国民の財産の処理は効力を承認する」と規定されたので、韓国内にある日本政府や日本国民の財産が米軍政の処分により韓国政府に帰属するようにとだけなったのであれば、我々は日本に対して一方的に請求権を主張することとなるのである。

ところで幸いにも8.15解放後、米軍政は1945年12月6日軍政法令第33号で帰属財産管理法を公布し、韓国にある日本の財産を国有私有いかんにかかわらず全て米軍政庁に帰属させた。

このように接受された帰属財産はその後政府が樹立されてから一月後である9月11日に韓・米間財産および財政に関する最初協定を締結したことで、韓国政府に移譲されることとなった。

こうした法的根拠、すなわちサンフランシスコ平和条約第4条2項により韓国にあるすべての日本財産は米軍政庁を経て、韓国政府に帰属され、その代わり同条1項により韓国は日本により一方的な請求権を持つこととなったのである。

 

3.請求権と関連した韓・日会談経緯

 

前で説明した請求権資金の背景と法的根拠を持っている請求権に関して韓国政府は1951年第1次韓・日会談が開催されるや、次のような8項目の「対日請求権要綱」を日本側に提示した。

<対日請求権要綱>

(1)朝鮮銀行を通じて搬出された地金(249,633,198.61g,第5次会談時提示)および地銀(67,541,722.2g 第5次会談時提示)の返還請求

 

(2)1945年8月9日現在の日本政府の対朝鮮総督府債権の返済請求

(a)逓信局関係

  1. 郵便貯金、振替貯金、為替貯金等
  2. 国債および貯蓄債権等
  3. 簡易生命保険および郵便年金関係
  4. 海外為替貯金および債券
  5. 太平洋米国陸軍司令部布告第3号により凍結された韓国受取金

(b)1945年8月9日以降日本人が韓国の各銀行から引出した預金額

(c)韓国で収め入れられた国庫金中の裏付資金がない歳出による韓国受取金関係

(d)朝鮮総督府東京事務所の財産

(e)その他

 

(3)1945年8月9日以降韓国から振替または送金された金品の返還請求

(a)8月8日以降朝鮮銀行本店から在日本東京支店に振替または送金された金品

(b)8月9日以降在韓金融機関を通じて日本に送金された金品

(c)その他

 

(4)1945年8月9日現在韓国に本社、本店または主な事務所があった法人の在日財産の返還請求

(a)連合国最高司令部司令965号に依拠、閉鎖清算された韓国内金融機関の在日支店財産

(b)連合軍最高司令部司令965号に依拠、閉鎖された韓国内本店保有法人の在日財産

(c)その他

 

(5)韓国法人または韓国自然人の日本国または日本国民に対する日本国債、公債、日本銀行券、被徴用韓国人の未収金、保証金およびその他請求権の返還請求

(a)日本有価証券

(b)日本系通貨

(c)被徴用韓国金未収金

(d)戦争による被徴用者の被害に対する報償

(e)韓国人の対日本政府請求恩給関係

(f)韓国人の対日本人または法人請求

 

(6)韓国人(自然人、法人)の日本政府または日本に対する個別的な権利行使に関する項目

(7)前記諸財産または請求権から発生する諸果実の返還請求

(8)前記の返還および決済の開始および終了時期に関する項目

こうした我々の要求に対して日本側はサンフランシスコ平和条約第4条2項により日本がその効力を承認するとした南韓米軍政庁の日本財産に対する処分は1907年制定された「ハーグ」陸戦法規第46条「占令軍は占令地域で私有財産に対しては一切没収できない」と規定を理由に私有財産に関する処分まで認定するものではないと主張すると同時に、私有財産に関する限り原権利者である日本人に対し報酬請求権が残っており、韓国にいる日本人の私有財産が日本に対する請求権より段違いに多いとしつつ逆に日本の対韓請求権を主張した。

こうした日本側の主張に対して韓国政府は国連総会の書翰を発送し平和条約第4条に対する有権的解釈を要求することとなった。

これに対して1952年4月に同条約の起草に主導的役割をした米国から「日本は対韓請求権を要求できない。その上韓国にある日本財産はたとえ個人私有財産といえども一旦国連軍が処理しそのまま韓国政府に移譲したものであるため、日本はなんらその財産権を主張することはできない」という回信を送ってきた。

こうした米国務省の見解にもかかわらず日本は対韓請求権の主張を捨てず継続して固執していた。

初期の韓・日会談は前で言及したとおり、互いに相反する主張のみが繰り返され、第3次会談では日本の首席代表である久保田一郎が「36年間に渡った日本の韓国統治は韓国近代化に有益な面もたくさんあった」と言い、また続いて「対日講和条約が成立される前に韓国が独立したのは国際法違反だ」というなどの妄言をしたことで会談は決裂してしまった。

第3次会談で日本首席代表久保田の重大妄言で韓・日会談は4年間中断状態にあったが、韓国政府は会談再開の前提条件として①久保田の妄言を正式に取り消すこと、②日本の対財産請求権を取り下げること、③一部文化財を返還すること、④相互抑留人を釈放することなどを定義し、1957年12月31日に日本政府が正式公翰で受諾することによりある程度の妥協点を探ることができるようになった。

すなわち日本が7年間対韓請求権を主張し取り下げることになり対日財産請求権のみ残ることになったのだが、その間7年間の韓・日会談で得た成果とは日本の対韓財産請求権を放棄させたことだと言うことができる。

対日請求権だけが残った韓・日間の財産請求権を4次会談で扱おうとしたが、4.19で中断し1969年に新たな政治体制が樹立されてから過去日本に提示した8項目の要綱に対してひとつひとつ計数的な検討に入ることになった。

各項目の法的根拠に対する過程で日本側は証憑書類の提示を要求したが、韓国側では立証資料を提示することができず韓・日間には深刻な対立のみ招来し、何の合意点を発見できずにいたが、5.16軍事革命で両国間の妥結模索は中断されてしまった。

1961年から開催された第6次会談では5次会談で法的根拠および証憑提示などの論議が繰り返されたことを鏡として政治的次元で決定するほかないという判断のもと、首脳会談または政治協約などを経て1964年12月から始まった第7次会談で条約に仮調印することとなり、韓・日両国議会の批准を得て1965年12月17日付で発効することになったため対日請求権資金が導入されるに至ったのである。

 

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