過去7年にわたって韓国No.1企業のサムスンで勤務し、 2012年1月韓国語コーチとして独立しました。
韓国との出会いは小学校6年生
初めて韓国に行ったのは1988年3月。
私の住んでいた自治体が 韓国の小学生チームと サッカーの親善試合をする という企画に参加しての訪韓でした。
当時の韓国は民主化直後、 さらにソウルオリンピック直前で 今以上に人々の活気が溢れていました。
しかし、ソウル市内ですら 明らかに貧しさを感じさせる街並と目に入ってくる文字が漢字どころかアルファベットも一切ないという風景の異質さによって、作家・関川夏生氏が 著書「ソウルの練習問題」で記した「ハングル酔い」による体調不良と食欲低下を起こしてしまう不運に・・・。
さらにはせっかく食べた肉で 食あたりを起こすなど、全く楽しめない散々な韓国デビューとなってしまいました。
大学入学と同時に韓国語勉強スタート
大学入学時に選択しなくてはいけないのが、 第二外国語です。
当時、中国が香港返還を目前にした 経済成長がスタートしたのを受けて中国語講座が6~7クラス設定されてるのに定員オーバーしたのに対し、韓国語は隣の学部と共同でようやく1クラス開設されただけ。
その上、総学生数1200名のうち 選択したのが30名ばかりで、そのうち20名は中国語の抽選に外れて仕方なく履修している というという不人気ぶりでした。
わたしはもちろん自主的に選択した 10名のうちのひとりでしたが、 選択の理由は今度こそ韓国に行くとき「ハングル酔い」しないため・・・。
小学生のときの「ハングル酔い」という得難い経験は私の人生に大きな影響を与えました。
で、授業では真剣に勉強する人が少なかったのもあって、 先生には目をかけてもらい、 基本をしっかり固めることができました。
韓国語を選択する人は変人扱い・・・
しかし、当時は韓流が始まる8年前くらい・・。
韓国について話題になることはほとんどない時代で、 韓国語を履修していると話すと必ず聞かれるのが
「なんで、韓国語なんかにしたの?」
「韓国語勉強して何に使い道あるの?」
という質問。
同級生の女の子からの質問にまともに返事をしても 「ところで、韓国ってどこにあるの?中国?」 などと今では信じられないような会話が 平然と行われていましたし、 その上社会人の男性からはすぐ オンナ目当てじゃないの??と言われる有様でした。
今でこそ韓国の美人と仲良くなりたいという 願望・欲望はあえて否定しませんが、 ウブでピュアだった学生当時の私にとっては 非常に悔しい経験だったことを覚えています。
退社後、韓国ビジネスを目標に韓国語を独学勉強
大学卒業後、大手電機メーカへ就職し 通信インフラ構築の事業に関わっていました。
が、あくまで日本国内だけで完結してしまう仕事で、 韓国との接点も当然ありません。
平凡な日常の繰り返しのなか外資系メーカの参入もあって、自分のいる分野が 将来的にだんだん縮小していくことが分かってくるとともに入社同期が韓国サムスンとの協業事業の担当になったことをきっかけに機会は待つのではなく自分で取りにいかなくては・・との思いが強まり 4年の勤務を経て退社しました。
退社後は貯金を食いつぶしながら韓国との接点のある仕事に就こうと 独学で韓国語の勉強をやりました。
基礎文法と読解は大学で学んだのである程度できたもののリスニングとスピーキングがまるでダメな状態でした。
なので、書店で中級用のリスニング教材を購入し、 ”一冊まるまる覚えてしまえば韓国語が話せるようになるはずだ!” と、毎日単語テストとディクテーションを繰り返しました。
この勉強方法を3-4ヶ月続けましたが、 何度やっても単語テストで満点がとれず、 毎日やってもディクテーションを完璧にこなせません・・・。
そんなイライラが募る中、 気晴らしにネットを通じて見つけた 韓国のラジオ放送を聴いてみたとき 私の全身に衝撃が走りました。
なんと、あれだけ毎日勉強したはずなのに 全くなんにも聞き取れなかったのです・・・。
これで自分の語学センスに見切りをつけて、 韓国語を諦めることにしました。
今振り返ると、 聞き取れれば、しゃべれるようになると勘違いしていたことが 挫折の原因でした。
気づき→渡韓→婚約
それから半年間、相変わらず再就職もせずにいましたが、 ある日偶々ネットで知り合った 韓国人姉妹の東京観光に付き合ったのがきっかけとなり、 ひとつの大きな気づきを得ることになります。
それは、今までの勉強法では 絶対話せるようにはならないんだ・・ということ。
韓国人姉妹は英語ができるが日本語ができず、 私は英語ができないので 彼女たちとの会話は 私が韓国語の単語を並べることで 成り立たせていたのですが、 そこで体感したのは 自分の考えを韓国語で言い表そうとすると 頭のなかで血液がぐるんぐるん回り、 めまいか酸欠を起こすんじゃないかと思うくらい 脳の活動が活発になっていたからです。
それまでテキストやCDを見聞きしながら 韓国語で散々音読してきましたが そんな頭の動きを一度も感じたことがなかったのです。
しかも、自分が話せた程度のレベルであれば 相手の韓国語も聞き取れることが 実際に会話をしてみてわかりました。
そこで私は悟ったのです。
韓国語で話せるようになりたければ、 直接韓国人とどんどん話をするしか方法がないと。
そう確信した私はワーキングホリデーのビザをとり渡韓。
韓国語を絶対マスターする覚悟で午前中は語学学校、 午後は現地韓国人とのフリートーキングを繰り返しました。
午前学校でならったことを午後すぐに試してみるという方法が 本当に私の実力を上げてくれたと思います。
ちなみにそんなフリートーキング相手のひとりが、今の嫁さんでした。
日本帰国、サムスン就職、結婚
日本に帰国後は、貯金もないのですぐ就職活動をはじめました。
しかし、武器がやはり韓国語だけというのは弱いものです。
英語の実力を求められるところには採用されず、
とある一流日本企業での面接では 「韓国語を勉強してきて、ネイティブ並みに話せます」 とアピールしたところ、
面接のおじさんに
「じゃ、中国語もできるのか?」
と学生時代に女の子との間で交わされた禅問答のような質問も受ける始末。
これ2005年3月の話ですよ。
まだまだ韓国語は需要がないな・・と焦っていたところ、 拾ってくれるところが現れました。
韓国語ができる日本人であることが評価され、 韓国どころか、今や世界No1の電子機器メーカーになった ”サムスン”に採用されたのです。
日本語ができる韓国人はたくさん面接したけど、 韓国語ができる日本男性を探してたんだというところにちょうど巡り会ったわけです。
本当こういうのはご縁なんだなとつくづく感じます。
2007年以降、サムスンが破竹の勢いで成長していったのは ビジネスマンならずとも、ご存知の方も多いかと思います。
こうした時期にサムスンで仕事ができたというのは 本当にありがたい貴重な経験をさせてもらいました。
そうして再就職を果たしましたので、 その3ヶ月後、無事に韓国から嫁を呼びよせました。
今、娘と3人家族として暮らしています。
現在、そして今後へ
2012年1月、6年間お世話になったサムスンを退社し、 韓国語コーチとしてスタートを切りました。 私には
- 韓国語がうまくなりたいと独学をしたものの 8年間勉強方法を間違え続けて全く上達しなかった経験
- コツをつかんで韓国に渡り、 学校での勉強と実践を繰り返してどんどん上達した1年間の経験
- 韓国語を使うことを仕事とし翻訳・通訳をして給料をもらった7年間の経験
- 韓国人の上司、同僚と一緒に酒を飲み、バカ話に花を咲かせた経験
- そして、韓国で韓国人の嫁と付き合って結婚までした経験
合計16年間に成功も失敗も含めていろんな経験が私の中に蓄積されています。
その経験の中からこういう場面ではこう言った方がいい というアドバイスもできますし、 教科書に書いてあるけれども、実際には覚える必要ないですよ というアドバイスもできます。
なにより、私の韓国語を実際聞いて頂いて 「こんな程度で通じるのか!」という感覚を ぜひお伝えしていきたいと思い、 これら私の経験を全て詰め込んだ 韓国語教材を作りました。
すでに4000人を超える方々に教材をご利用いただいており、 どうしたら韓国語が話せるのかを体験していただくために 2013年10月と2014年6月には韓国西江大学とのコラボで 受講生の方々に留学体験ツアーを実施しました。
これら教材やイベントを通じて 韓国語の勉強をしているものの伸び悩んでいる方、 そしてこれから韓国語の勉強を始めたいけど、 何からはじめればわからないという方が できるだけ早く、韓国語をあやつる楽しさを味わえるようにお手伝いすることが私の役割です。
今現在、韓国語を勉強しても私がかつて経験したような 「韓国って中国?」という質問を受けることはないですし、 変わり者扱いされることもなくなりました。
ドラマや音楽を好きな方ならご存知だと思いますが、むしろアジア各国の若者たちは自分の夢を叶えるために韓国を目指す時代になっています。
ビジネスの面でも電機や自動車メーカの存在感も定着しており、韓国語を使う場面がさらに増えていくはずです。
自信をもってどんどん勉強を進めてみてください。
そして、もし韓国語は難しいなと感じたときには ぜひ私に相談してください。
きっとあなたのお役に立てるはずです。
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